死線を越えて      林 キク子

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この文章は、平成19年7月28日に他界した祖母が、満州から引き上げてきた時のことを綴ったものです。

昭和二十年八月十五日、日本人にとって最悪の年。突然非難命令が下り一時三里余り山奥の六洞といふ部落へ二十三家族総勢百名余■仕は残り午後三時出発し幼子は元気に遠足気分で歩いて呉れた。其の前日より清津、羅津、雄基方面よりの避難列車は満員で屋根の上機関車の上まで鈴成りの情況又徒歩で来る人は続々と来て官舎にも相当な人で野菜、米などを給へた。

生の南瓜をかじり哀れな姿で疲れ果た身体を引づって崩れる様に軒下に座り込んで居る人々を見て幾日かの後に同じ運命にあるとも知らず同情し暖い言葉をかけて一泊の宿をしてやった。

果して或日は私達にも同じ運命が襲って来ました。

六洞についた一夜を野宿で明し翌日は雨に降られ半島人に一夜の宿を求め雨を凌いだが一晩中たち通した翌十七日は連絡員の傳へで列車で白岩に行き恵山鎮より六〇キロ余り歩き平安南道にでる方が安全といふ事に一決し六洞を後に吾家に帰って見れば入口は破壊され目星しい品食糧はなく家具類は殆ど破壊され余りの事に母は帰らぬぐちを繰返て居た。

列車に乗込む仕度をして居ると■機が二機来た。防空壕へ逃げた。凄じい音響と地鳴りに命が無いかと思った。

そして十八日無蓋車で白岩についた。

そこで漸らく様子を見る事にして鉄道寮に入れて貰ふ。ここにも何処から共なく幾萬人といふ人が集て大変な騒ぎであった。

白岩で二三さん達に逢ふ事が出来た。二十日すぎ停戦になった事を知らされたが誰も本当にしない其の内にソ軍進駐となり始めて本当だと判りがっかりして言葉を発する者は居なかった。

ソ軍に時計現金を掠奪され分散してモンペ着物に縫い入れたりした。
ぐずぐずして居られず城津へ行かうと列車へ。だが南夕迄より先は危ぶなくてここで降ろされる。仕方なく歩るく事になった。

荷物があって歩けないので売ったり捨てたりし野宿用具と食糧と子供の着替えだけで精一杯。重い荷物にうしろへ引戻される様になり手はしびれて何にもわからない。其の上に克子をのせて歩く多美子も歩かなくなる。怒ったり好したりして歩かせる。

母は人より先へ先へと歩いている。足がおそいので迷惑をかけてはならないと何時も休む時も歩いていたあの姿が忘れられぬ。何の為にこの年寄がこんな苦労をしなくてはならないのかと国を恨んだ。戦争責任者を怒ったがどうすることも出来ない。

子供の多い珍貨組は一日三里歩くのがやっと。院壌に入る手前で雨に降られてトンネルの中で一夜をし小雨の振る中を院壌へ向った。

丁度空家が二三軒あったので幸いと雨宿りに入り荷物を降した所へ半島人四五名に見つけられ誰れの許しでこの家に入ったとい言ふて男全部に手錠をかけソ軍へ渡すと恐しい顔をしてところ嫌はず叩きどうなる事かと生きた心地はしなかった。どうぞ許して下さいと口惜し泪にくれ乍ら頼んで見たが冷笑ををして悪口罵倒をあびせるばかり子供は父を呼び泣き叫ぶ。

遂に連れて行かれた。残された私達は不安と心配でウロウロしているダケ。半島人にこんな情ない仕打を受け様とは口惜しくて噛みつきたいが自分一個人ではない日本人全体に及ぼすとじっとこらへる思いは皆な同じであらう。

二時間程して帰へって来るのが見える。ああ無事かと安心する。聞けば一人一人両手を六角棒で力一杯叩れたそうで誰の指も肉は破れ腫れ上り見るも哀れな手にされ一晩中冷した。朝早く出発する。其の日に鶴中に着き保安署で荷物の検査。現金品物を取上げられ増々不自由になる。途中我々ばかりでなく何処から共なく大勢の同胞が歩いている。既に冷たくなった子供を埋めるのだが何にもないので疲れた手で土を堀っている人、死に瀕した幼子を抱いて泣きながら歩いている人、老人は道路に倒れ虫の息。見るも聞くも敗戦の悲しさよ。

城津へ行けば何んとかなると城津へ急ぐ。

母もその積もりでいるのでせう。夕暮城津着いた。鉄道の寮へ泊る事に成り旅の疲れを休める。既に幾萬人の群れで廊下に寝る。着いたばかりで場所も定まらず外で待って居る内に私達の組の娘さんがソ軍に連れて行かれた。噂には聞いていたがこんなに身近に迫って居ようとは思はなかった。

恐ろしさに夜は食も通らない。真暗な廊下で折重なり寝るともつかず座っていたが疲れの為にねむっていたのでせう。突然階上で女の悲鳴と助けてと叫ぶ声に眼が覚める。男の唸る声赤子の泣叫ぶ声。ソ軍と直感した。ああ恐ろしい事だが身体中ふるへて止まらない。朝起きて見ると皆の黒髪を切って男装して逃げ隠れして居る。昼るでもでも部屋に来て荷物を荒す。城津では生きた心地はしなかった。母は兄の家に先に行った。ゆっくりと旅の疲れをいやすると思ふ。兄の家に行って見るとやっぱり半島人に襲われて集団生活をしていた。空いた官舎に入れて貰ふ。風呂を沸して始めてホッとする。

恐ろしい事も考えず温いオンドルで寝る事が出来た。今度は汽車で南下しようと城津組と一緒に元山まで来たが二再び咸興へ戻され鉄道養生所へ収容されてしまふ。

何時の日憧れの日本に帰へれる事でせう。それまで元気だった子供が一人死に二人死に次々と病気罹り哀れ。幼子はここ迄歩いた効もなく死んでゆく。

一晩の内に一軒の家から二人無くす人が有るときく。親の気持どんなでせう。家に居れば充分な手当も出来温い所で養生出来るものを空しく見殺しにせねばならない。

母が足が立てなくなり便のでるのも判らない。きっと無理をした為でせう。医者にみせても薬はなくあったとしても高価で手がでない。もうお金もつきて米は食べられず高粱ばかりの粥をすすって居た。

半島人の家に馴れぬ米搗きに行き野菜・残飯を貰ってむさぼる様に食べた。働く人が多いのでアブレて帰へる方が多い。其の内克子が病気になった。一番恐れた事だが仕方がない。私しばかりではない幾百萬の親が我子を失はない者は一人もないのだ。

克子お前には気毒だが婆ちゃんの代りになってくれ。婆ちゃん丈はどうしても内地の土を踏ましてやりたいからと心の内で頼んだ。どうせ助からない命なら一日も早く引取らせて下さいと神様に祈った。

母と克子の世話で多忙な日が続き座るひまもないあわただしい日のみ続く。克子の死も近づいたが今日中は大丈夫と思ひ洗濯をしていたら様子が変だとの知らせに窓から飛び込で行ってみると既に母の顔を見る事も出来ず静かに眼をとぢた。

忘れる事の出来ない昭和弐拾年十一月十六日

克子よ永遠にさよなら克子よ本当に婆ちゃんの代になってくれたね。苦しかったでせう。でも楽になttね。これから先母ちゃん達の苦難は何時迄でつづくかまだまだ辛い思ひをしなくてはないお前が居てはかへって辛い悲しい思をするばかりだ。

お■に行けばお友達が澤山待っているから仲良く遊ぶのだよとしっかりと抱きしめて最後の別れを惜んだ。母も大声で泣いている。家にいたらこんな悲しい目に逢わなくでも良いものをこれも運命と諦らめて生前気に入の赤い水兵服を着せ青い帽子を被ぶせた。

まだ私しには二人の子供が有る幾人居ても皆亡くした人さへあるそれを思へば諦めるより仕方がない。貧苦と周囲の圧迫に日夜悩まされ早や十二月になる。

母は食も良く血色は良いのだが立てない寒さにふるへて居る。七輪を入れてやるが寒いらしい可愛相に七十年も苦労してこんな哀れな目に逢せて申訳ない。

せめてお金でもあったら美味しい物をたべさせるのにどうしてこうも不幸なお母さんなのでせう。無理をしてお餅を買って子供にもやらず食べさせた時ああうまかったお前に苦労をかけて済まない済まないとい通した。

死人を叺に包み荒なわで結びまるで魚か何かの様に運ばれるのを見て死にたくない内地に帰へる迄で死にきれないといふて居るが私しの目で見てもとても駄目だと思って居る。生活難で遂に通帳を四割で半島人にうりやっと白い御飯を食べさせ色々買ってたべさせたらとてもよろこんだ。あの顔運命はとうとう親子を引離す日が来た十二月一日夜八時頃養生所より二千名富壌へ疎開命令がソ軍より下り明朝八時迄に集合の人選に入った。今此の母を置いてどうして行かれ様といってどうして連れて行かれ様富壌はここよりまだまだ悪条件の所と聞いて居る。

兄達の方も皆病気で男子一人起きて居る丈でも仕方がないので預ける事にした。残る様に頼んで見たがソ軍の命令で如何ともする事が出来ない。

その夜はねもやらず母との別れを惜しんだ。夜が明けた愈々別れる時が来た。最後の別れうしろ髪ひかるる思ひ長く居てもただ泣けるだけ逃げる様に駅へと急ぐ。粉雪の降る寒い寒い日貨車にゆられ夕方富壌に着いた。

半通ばかり畠の中を行くと荒果てた兵舎が見えた。壁は落ちガラスは破れ人間の住む家ではない屋根が有るといふ丈の家火の気はなし其の為に大分死んで行く人が出来た。ここに十月まで日本軍が居たとききなつかしかった。

寒さと餓饉に何時迄ここで暮らすことやら病人は増へるばかり死人は続々と一日平均十人の死体がでる有様で私達のまはりは病人ばかり今の処家族は無事に過して居るが萬足に生きることは出来ないと覚悟をしていた。

十二月二十日から保安隊の命令で二里余の山に作業を初め二人で毎日働きに通ひひざまで入る雪を押分けて作業。夜は真暗な所で寒さにふるへ乍ら一睡も出来ぬ夜もあった。

私達の様に家を捨てて来た者と二ヶ月位家に居て品物を金に代えた人達とは境遇に非常に差があって白米をたべ餅を買ふ人があるのを見て子供心に何んと思ったことでせう。親を恨んでくれるな北鮮の人と咸南の人とはそれ丈の相違があるのだから決してひもじいからと人の物は盗んでくれるなと内地に帰へるまでの辛棒だからと悟した。

富壌では餅一ツ買って興へることも出来ず生地獄とは此のことかと思った。ここでもソ軍が来て暴行をする夜は床下にねた。女だけが知る恐怖心に身を守ることに一番苦心した。

病人はごろごろと真暗な通り途に無惨な死体となっている。其の死体につまづく気持ちの悪さでも終いには平気で通れる様になった。

毎日大勢の死体の仕末をする者は一人も居なくなり山の様に積重った悲惨な情況を眼のあたりに見て悲憤の涙が止めどもなく頬を傳ふ。
半島人の子供にさへ石を投げられ日本人は汚いと悪口をつかれても一言も言へない口惜い悲しい身の置所のない世の中に変■しまったのだ。

本当に前の日本人の姿をして居る者は一人も居ない。服は破れズボンはちぎれ肌が見えお湯には入れず畠に居たまま或いは作業中そのまま飛び出したきり親子別れ別れになって探し歩いて居る人きけばきく程あわれな話しばかりでここに書き綴ることは出来ないのが残念に思ふ。

内地へ帰へれる日を唯一ツの希望として話はそのことばかり百千秋の思ひ帰へれないものなら何時死んでも思ひ残すことはないのだが何時かは帰へれる日が来るとそれ丈を希望に生長らへてじっと我慢をしていた。死んで行く人々は十人が十人帰へりたい帰へりたいと叫び続けて永遠の眠りについて行く。神も仏もないものかと思った。

一日一合の米を四人でたべかつかつ命をつないでいた。病気に慣れば終だ・子供のためにもどうしても生きなければならない。應召家族がほとんどで女子供ばかりの其上母親に死別れたら哀れな孤児になる。そんな子供は百余名出来た。二三才から十五才位で本当に地獄だ。死んだ方が幸福だと度々思ふ。母はどうして居るか知らとても生きてはいまい気にかけても音信不通。此の世のことは一切判らない子供のことも母のことも思ふまい唯現実に生ることを考へ様まだまだ運命の神は容赦なく迫ってくる。それは主人が病気に慣ったことでした。

何の病気か判らない食は普通と変らないが熱もないし只寒さいのだそうで大したことではない風邪をを引いた位ひに思って居たが二三日内に足腰が立てなくなった今にして思へば発疹チブスではなかったかと思はれる。そうしている内にソ軍のシラミ消毒が来て病人でも何んでも丸裸一糸も纏ふことも許されず四〇分ばかり酷寒の一月十二日骨まで凍る様な寒い思ひで消毒を待った。

其の為に悪化して遂に帰らぬ人となってしまった何んと形容詞したら良いのか全く片腕を取られた気持ち私の責任は増々重くなったどんなにしても生き抜いて子供を成長させなくてはと私しの心は鉄より固く此の石を貫ぬき通すことに炎の様に燃えた。夜もひるも病人の唸る声私しも病気になりそうだ。気毒に故郷の母を父を夫を子を思ひ乍ら死んで行くどうして救ふ術も無い。

部落に盗難が有ると直ぐ内地人に疑いをかけて雪の中に土下座をさせて犯人の出る迄座らされた。犯人のでる筈はない。いくら落ちぶれても日本人だ死んでも泥棒なんかする筈がないそれにこんな目に合わせてどうして此の仇を取らずになるものかと誓い合った情けない日が続く自然に子供も心がいじけて元の朗らかさを失ってしまった。

春も近づき草の芽もボツボツで初じめた。お墓に初めてお詣りに行って驚いた延々長蛇の如く塚が幾つも列らんで居る。此の中に恨を呑んで死んだ魂が眠っているのだと思う口惜しかったでせう辛かったでせう苦しかったでせう魂だけはなつかしいふるさとへ帰っておるでせうと日暮まで語り合った。

毎日二里余の山途を元木を背に往復三回してヤット五円の賃金を貰ふ。其の日の糧を求めてまた山の頂を登れば遥か彼方に白く霞んで見えるのは日本海誰れあの海をみて泣かない者があるでせう又段々暖になると伝染病が蔓延することは明らかなもので其の犠牲者は数知れぬ。事前にそれぞれ脱走しなくては日本人全員の生命にかかわることなので支部長の許しを受けて秘そかに夜明けを期して何処ともなく姿を消して三日後には十四五人が残ったばかり最後の人々に混じって私達親子は幸運にも列車で南下出来る話に決まった。

忘れることの出来ない昭和二十一年五月二十三日愈々出発の日が来た。
恨み骨身に染みた土地では有りますが永遠に彼地に眠る人のことを想へば断腸の思ひがします刻々と遠ざかり行く富壌よ涙に霞んで何にも見えなくなる。

鉄原まで着きそこでソ軍に見つけられ二再北鮮に返すとのことに泣くにもなけぬとは此のことでせう又逆戻りをすることになり死人の様に列車にのり込み梨花という駅で五分間停車を利用してホームの反対側にとびおり列車をやりすごし安心と思ふ間もなく二人のソ軍に見つかり又わけのわからない暗い途を犬か猫の様に叩かれながら半途ばかり歩いて牛小屋の中に監禁されソ軍の例の婦女子をだせ迫られ商売女の人に頼み我々を救って頂き何んと感謝して良いやら夜明前に一同又脱走五里ばかり歩きつづけた金花といふ所に着き三十八度線はあと二里だとききどんなに勇気付けられたか判らない。

夜道を決行して一寸先も見えない道を八度線八度線と心に念じ大人も子供も咳一ツせず進む夜は白々と明けてかすかに38度と書いた標が見えました。
其の時の気持はここに記すことは不可能です。

人の情によって親子三人ここ迄辿り着いたことは生涯忘却することは出来ないと誓ひ京城さして南下し翌日夕方なつかしい京城の街へ着き暖い世話会の方々に慰められここで初めて半月振りに家の中にねむることができ夢の様な心地がする。

滞在一週間で仁川港よりアメリカ貨物船で帰国する事ができました。

そぼ降る雨の中を龍山駅より仁川に向ひ愈々船にのり母国を差して嬉しい悲しい悲喜こもごもな想ひをのせて

やがてドラの音が鳴りひびき今後こそ日本へ帰へれるよろこびに初めて笑顔をみせるかほとかほ雨に煙って遠ざかりゆく朝鮮の姿

二度と来るであらうか朝鮮の土地よ月尾島も私の視野から離れ初めて我に返る生を受けて三十年片時もはなれたことなかった朝鮮はやはり忘れられない土地

OFFICE PROCEED(オフィスプロシード) 代表 林 浩司